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ダンスカンパニーノマド〜s新作公演

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「ノマド〜s」というダンスカンパニーの宣伝美術をしています。
図案チームとしての僕らは、「マガ9」のほか、当然、いろいろな仕事を日々しているわけですが、そんななか、ビジネスを超えて、個人的にも応援したい仕事というものがあります。この彼らの公演のチラシをつくることもそんな仕事のひとつです。


 彼らのダンスは、「コンテンポラリーダンス」とよばれるジャンルに属するのかもしれませんが、ノマド作品が興味深いのは、そのテのジャンルの作品が、えてして「ダンスのためのダンス」に嵌ってしまうことに、彼ら自身がとても意識的だということです。ノマド作品を見るたび、ダンスへの情熱のみならず、「ダンスってなに?」「発表ってなに?」と、作品と「この社会」、というより、「この生活」との関わりを問い続けている気がしてなりません。そして、見終わった僕らは、いつも、自身の仕事を振りかえらされます。

 ノマド作品を思うとき浮かんでくる言葉に「混沌」があります。たとえば、シンボリックで強い表現は、合理的なコミュニケーションを実現すると信じられています。実際にそうだとも思います。ですが、彼らの作品は、そうした手法が取りこぼしてしまうもの、フォーマットにノれなくて無いことにされてしまう感覚や感情、そんなものを見つけたり、拾ったりしながら、いつも下を向いてうしろの方から歩いてきます。ザワザワとして不確かでつかみどころがない。そんな言葉にならない闇のかたまりがダンスの熱といっしょになって静かに迫ってきます。

 8年ほど前の公演チラシに、そんな彼らの、こちらはなかなか明快な宣言をみつけたので抜粋。
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 人間における入力とは「きずつく」ことであります。「なぐられる」ことであり「もうまくがやけつく」ことであり「こまくがやぶれる」ことであります。その入力は「ワリにあわないモノ」と交換される仕組みになっています。人間はそんな「不当感」をカラダの中に溜めつづけています。ときおり、その蓄積物は、「誰かを、あるいは自分を殺す」というカタチで出力されます。仮に「我々は『よく』生きたいのだ」ということを信じるのならば、それらは「正しく」出力されなければなりません。そのことに限りなく接近できる言語が「ダンス」であります。
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ダンスカンパニーノマド〜s新作公演
「時の花ーFlowers and Time」
8月1日〜3日、青山スパイラルホール

チケット購入、作品情報はこちらから。是非。

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