横浜名物として有名なシュウマイですが、「家計調査年報」でも、家計におけるシュウマイへの支出額は
長崎を漢文風にいうと「崎陽」というそうですが、崎陽軒を創業した久保久行(4代目横浜駅長)は長崎出身でした。駅構内での営業許可を受けた当初は弁当を扱っておらず、その後もこれといった特色がないまま。関東大震災後、会社再建のため"横浜名物"を欲した3代社長野並茂吉と初代社長の孫・久保健は中華街を食べ歩き、当時中華食堂で突き出しとして出されていたシュウマイに目をつけて、ある中国人の点心職人をスカウトします。
彼の名前は呉遇孫。職人気質で日本語もうまく話せない彼は最初固辞しますが、野並、久保2人の三顧の礼に応じて崎陽軒に入ります。苦心惨憺して、冷えるとまずいシュウマイを、貝柱を使って改良し「冷えてもおいしいシウマイ」に作りかえました。「シウマイ」としたのは、広東出身の呉さんの発音の癖からだそうです。発売は1928年で、12個入りの1折が50銭でした。
戦後の1950年になって赤いチャイナ服を着た「シウマイ娘」が売るようになり、作家の獅子文六が小説『やっさもっさ』で取り上げました。これが映画化されたので有名になりすぎて、会社では「シウマイ娘おことわり係」を置いたほどだったそうです。会社はその後も発展しますが、呉さんは現場の「シウマイ師範」として努め、1976年に91歳で亡くなりました。呉さんの息子・呉笑安さんは中華街で「順海閣」を創業し、現在も有名広東料理店として賑わっています。