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日めくり編集メモ 015

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東京23区内、しかも都心から直線距離で6kmほど。ただ、どの駅からも遠く、最寄りはバス停――。江東区にある砂町銀座商店街はそんな条件の中でも、毎日大勢の客が訪れ、焼鳥の香ばしい匂い、呼び込みの声で大賑わいです。その少し北に入った「砂町文化センター」の中に石田波郷記念館があります。

石田波郷は1913年、現在の愛媛県松山市に生まれました。松山中学在学中に同級生に勧められて句作を始めますが、この同級生はのちの俳優大友柳太朗です。その後、五十崎古郷に師事し、「波郷」の号を与えられます。さらに、古郷の師である水原秋桜子が主宰する「馬酔木(あしび)」にも投句するようになり、秋桜子門の俳人として若くして確固たる地位を占めるようになりました。

 

しかし1943年、召集令状が30歳の彼の元にやってきました。軍鳩取扱兵になりますが、華北での軍隊生活で肋膜炎を発症。帰国し兵役免除となったものの、肺病との長いつきあいは続きます。そんな中、東京大空襲のちょうど1年後の1946310日、波郷は江東区へ引っ越してくるのです。一面の焼け野原を彼は「焦土諷詠」として多く詠みました。「百方の焼けて年逝く小名木川」

 

戦後は、病気によって深みを増した秀句を次々と発表しますが、その療養中にカメラに凝りだしました。1957年から読売新聞江東版に115回連載した「江東歳時記」は、彼の句と解説文、そして写真が三位一体となったものでした。写真は新聞社のカメラマンによるものがほとんどですが、波郷が写したものを何度か使われているとのこと。これがパネルになって記念館に展示されています。なんとも懐かしい昭和の風景がそこにはあります。

 

波郷は1969年、肺結核でこの世を去りました。記念館は波郷らしく静かでつつましやかですが、すぐそばには実に賑やかで庶民的な商店街。この落差こそを波郷は愛したのかもしれません。

(参考文献:石田波郷『江東歳時記/清瀬村(抄) 石田波郷随想集』講談社文芸文庫)

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