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日めくり編集メモ 018

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サッカー・ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で、日本代表の戦いが終わってからそろそろ1ヶ月が経とうとしています。目標としていたベスト4には届きませんでしたが、海外大会での決勝リーグ初進出など戦前の予想を覆す見事な戦いぶりでした。日本サッカーの歴史をひもとくと、これはサッカー界の先人の努力とその苦悩の果てに得たものだと分かってきます。

日本のサッカーの戦後は、どん底からのスタートでした。アジア大会でも各国の後塵を拝し、1954年、初めてのW杯予選ではライバル韓国に敗れ、出場を逃しています。56年、20年ぶりに五輪出場が成りますが、地元のオーストラリアに0-2で敗れました。さらに58年のアジア競技大会では地元開催にもかかわらず、当時アジア最弱といわれていたフィリピンにまで0-1で敗れ、グループリーグ敗退の憂き目を見ます。60年のローマ五輪予選でも出場を逃し、もう後がない状況に追い込まれました。なぜならその4年後に東京での五輪開催が決まっていたからです。

 

協会は危機感を募らせ、西ドイツからデットマール・クラマーをコーチとして招聘します。彼は「ヤマトダマシイ」を説きつつ、基本をしつこいほど徹底させました。情理を尽くしたその情熱は、いつしか日本サッカーの血となり肉となっていきます。東京五輪では初戦で強豪アルゼンチンを破り、クラマー・コーチは男泣きしました。準々決勝でチェコスロバキアに0-4で完敗しますが、4年前の惨状を考えると大健闘と言えるでしょう。さらに68年メキシコ五輪でのメンバーも東京大会のままほぼ固定。国際経験を積み重ねレベルアップし、銅メダル獲得という華々しい結果を残しました。

 

しかし、それまでの少数精鋭強化のツケは大きなものでした。翌年のW杯予選では1勝もできず、ライバル韓国など各国との実力は開く一方。71年のミュンヘン五輪予選はマレーシア、韓国に、74W杯予選はイスラエルに、76年モントリオール五輪予選もイスラエル、韓国にそれぞれ敗れて出場できない結果に。85年のメキシコW杯予選では最終予選まで行きましたが、宿敵韓国に連敗。87年のソウル五輪予選も、最終戦で引き分けさえすれば出場がかなうのに、中国に0-2で敗れこれまた出場できません。90年秋のアジア大会での惨敗まで、まさに日本サッカー冬の時代でした。

 

92年、協会はハンス・オフトを初の外国人代表監督として招きます。Jリーグ開幕を1年後に控え、「プロ」である監督と選手は意識改革を果たしました。同年のダイナスティカップと、AFCアジアカップで優勝したのです。しかしその翌年、アメリカW杯予選で「ドーハの悲劇」を演じ、またもやW杯出場の悲願はかなえられず、その願いが実現するには、97年の「ジョホールバルの歓喜」まで待たなくてはなりませんでした。低迷と高揚を繰り返してきた日本サッカー。今回のベスト16に満足していては何も得られないことは、歴史が証明しています。

(参考文献:『財団法人日本サッカー協会75年史』)

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