昨日、私の尊敬するある先生との打ち合が終わった後、千葉景子法務大臣がとった一連の行動について、議論となった。議論というか、私が感じている「もやもや」な感じについて、「先生はどう考えますか?」とたずねたところ、「そうであるならば、千葉景子は焼身自殺をするべきだ」と言うのである。
どういうことかというと、「法務大臣としての職務を果たせという官僚からのプレッシャーがあり、ならば密室の中で行われている死刑を、白日の元にさらすことによって、死刑廃止論者である千葉さんは、死刑存置派が8割を超えるこの国の世論を、変えたいという思いがあったのでは?」というぬるい私の考えに対して、「そのために二人の命を犠牲にしていいのですか? そしてもし死刑制度廃止という方向に世論を喚起したいと彼女が本気で思っているのならば、焼身自殺しかないでしょう」と言うのだ。そして今回のことで、世論はあなたが思っているとはま逆の方向に動くだろうと。
先生の推測は、「彼女は政局のために死刑執行にサインをした。二つに割れようとしている民主党をまとめるために、そしてそういう指示が総理に近いところからあったのだろう」というもの。
政局のために、自分の信条も捨て、二人の命を犠牲にした? そして死刑執行に立ち会った? 私は大臣になってからの千葉さんには、幻滅することばかりだったが、それでもかつての言動や就任の時の挨拶には大きな期待を持った女性の一人として、にわかには信じられない、信じたくない思いもあり、非常に歯切れの悪い議論となった。
そして先ほど、JMM [Japan Mail Media] の冷泉彰彦さんのコラムを読み、愕然とし深い絶望に陥った。そこには、昨日先生が話されたことと、まったく同じことが書かれていたのだ。
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私の見るところ、恐らく今回の執行劇の本質というのは千葉法相個人の変節というより、菅内閣の判断であるように思います。改造を行わない方針の下では千葉法相の交替は不可能、その一方で死刑廃止論者の千葉法相が議員バッジを失った状態で「執行せず一年以上経過」あるいは「任期中執行せず」という状態に至ることは、死刑存置派の多い自民党との政争で不利になる、そうした事情を総合して執行を迫った、そう考えるのが自然のように思います。
千葉法相は法務当局の圧力に屈して執行したのではなく、黒幕は官邸だと見るのが自然で、だとすればその動機は極めて政治的なものだと思います。政権が弱体化した際に、本来その政権が持っているイデオロギーに反しても反対派の要求を入れて一種の「変節」を遂げ、政治的失点を回避するというのは、多くの例があります。似たような例では、ノーベル平和賞授賞という自国の右派が忌み嫌う政治的「失点」を「埋める」ためにアフガンでの増派に走ったオバマなどと同じ、バランス感覚というよりもパワーポリティクスの打算というべきでしょう。
まして、今回は具体的に死刑囚二名の人命が政治的な計算のために左右されたわけで、多くの人が違和感を感じたのも当然のように思います。
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そしてまた、保坂展人さんのブログにも、「刑場公開」について、次のように書いてあるのだが、このおぞましい推測についても、あながち否定できない。
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私は、メディア側が「死刑の舞台装置」の巧みさに感動し、また「厳粛にして必要な空間」などと称賛する報道も出てくる可能性がある。ここでのポイントは法務省記者クラブ加盟社以外の海外メディアやフリーの記者を入れることにある。
裁判員制度では、市民が多数決で死刑判決に参加するという世界中に例のない評決の仕組みがつくられた。千葉大臣は、死刑の刑場が公開されることで、より慎重から事実に即した死刑の存廃も含めた議論が尽くしたいという意図があるのかもしれない。しかし、海外メディアやフリーを排除して行なわれる「刑場の公開」によって「鎖国ニッポン」は千葉大臣の意図とは別方向に暴走しかねない。
それは、ずばり言って市民・国民参加の「死刑執行」という姿だ。死刑の刑場も公開され、裁判員で市民・国民が決めた死刑の瞬間を皆が見届ける......もちろん、最初から「執行中継」などはないだろう。しかし、刑場が公開され、死刑囚の実名が公開され、法務省が発表するというのが次の「処刑」の状況だ。裁判員制度で開いた死刑への市民参加の入口が、市民・国民が処刑を確認・承認すると出口で完結し、今後50年は死刑判決と死刑執行に疑問を持たない社会を彼らは目指している。
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政権交代って、何だったのだろう? こんな日本はもう本当にいやだ。
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