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日めくり編集メモ 022

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もうすぐ8月6日の広島原爆の日。この被害はなかなか公にされませんでしたが、1952年の講和条約締結を待って「アサヒグラフ」誌上で公表され、大反響を巻き起こしました。原爆の実相を伝えたのは、編集長である劇作家飯沢匡(本名・伊澤紀)でした。

飯沢は、一般にはNHKの子供向け人形劇の「ヤン坊ニン坊トン坊」「ブーフーウー」などが有名ですが、戦前から新劇の劇作家として知られていました。絶妙な風刺を利かせた作風で、現在でも再演される作品もあります。また、フランス小咄を下敷きにした「濯ぎ川」はその後狂言に移植され、これも人気の演目です。ほかにも円空や国芳、刺青について芝居や文章にしたり、いわさきちひろ絵本美術館(現ちひろ美術館)初代館長を務めるなど多才な人物です。

飯沢は1951年に学芸部から古巣の「アサヒグラフ」に編集長として着任します。彼が抜擢した副編集長の友人が原爆投下直後に広島に入り、被害を撮影していました。ほかにも朝日新聞社で撮影したフィルムもありました。飯沢はGHQの検閲を受けないように、命令があっても焼き捨てたことにしてひそかに保管していたそうです。

焼けただだれた体、たくさんの死骸、惨いとしか言いようのない写真に世間は驚きました。キノコ雲は知っていても、その下にどんな惨劇が起こっていたか、やっと知ることができたのです。4回増刷され、当時としては破格の70万部を発行しました。彼は書きます。「この特集をみて、思わず目を蔽う人々は多いことであろう。しかし、目を蔽うことによって原子爆弾の威力は、いささかも減ずることはない。否! 現在の原子爆弾は、広島・長崎の比ではないというではないか。(以下略)」。この状況は今も全く変わっていません。

世界初の原爆被害の公開であったその特集のタイトルは、終戦の詔勅の一節「頻(しき)リニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ...」でした。
(参考文献:飯沢匡『権力と笑のはざ間で』青土社)

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