「をたはらへの御ぢんほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、卅三年のくやう也」
豊臣秀吉の小田原の陣(1590年)に従軍、没した堀尾金助という18歳の少年の母が記した、息子の33回忌の供養のための供養文と言われています。金助の父・堀尾吉晴は三中老のひとりですが、1622年には既に堀尾家は徳川側に帰順していますので、子を最後に見送った橋を架け替え、その青銅の擬宝珠に刻ませることも出来たのでしょう。
1936年に保田與重郎が『日本の橋』で引き、戦後になって有名になったようですが、現在あるものは複製で、実物は
母親の悲しみは33回忌を迎えても全く薄らがず、むしろ「即身成仏」への祈りを純化させています。「いつかんせいしゆん」は逸岩世俊、金助の戒名です。