何度も書いていますように、20代後半のころ、吉本興業の社員と知り合いだったことから、私は何人かの芸人さんに接することができました。接すると言っても、楽屋で横を通り過ぎるだけだったり、ネタではない日常の会話に耳をそばだてて聞いていたりという程度のことですが、お笑いファンの私にとっては、それだけで至福の時間でした。
今では「すべらない話」で欠かせない存在となった矢野・兵動の兵動さんも、私が接した一人でした。当時、矢野・兵動は、関西では若手の実力派しゃべくり漫才師として人気がありましたが、東京ではほとんど知られていなかった。だから初めて楽屋で二人を見たときも、どちらが矢野さんで、どちらが兵動さんか分からなかったという...。
私の知り合いの吉本の社員が、兵動さんと仲がよかったので、そのうち一緒に居酒屋に行くなんていう光栄な機会がやって来ました。中学時代に漫才ブームを経験して以来、お笑いマニアになった私にとって、どんなに有名なスポーツ選手、歌手、俳優などよりも、芸人が一番憧れの存在。だから、一緒に飲みに行けるなんて、こんな幸せはありませんでした。
舞台の上ではもちろんですが、飲みに行ったメンバーに対しても、兵動さんは笑いをとろうと貪欲で、関西でのいろんなエピソードを聞かせてくれました。
私は、関西の芸人さんの特徴の一つに擬音をうまく使うというものがあると思いますが、兵動さんもそう。「そしたらブワーって動きましてね」とか「キーンって向こうから飛んできて」とか、擬音を交え、身振り手振りで話を進めます。
と、ここまで書いて気づいたのですが、まさに、そのときの姿は、いま思えば「すべらない話」での兵動さんそのものでした。
当時、ナインティナインを筆頭に同期や後輩の芸人たちが次々と東京に進出するなか、地道に舞台を中心に漫才の道を極めていた兵動さん。飲み会の席では、漫才一本という自分たちの方向性について、本当にこれでいいのかと、少し弱気なことを言っていた記憶もあります。でも、その後、関西演芸界の数々の賞を受賞し、実力派漫才師として、関西お笑い界で、その地位を不動のものにしました。
そして、前述の「すべらない話」や「アメトーーク」などに出演し、今では東京のバラエティ番組でも、いい味を出す存在となっています。
でも、兵動さんの持ち味が最も出るのは、やはり舞台。今度、大阪に舞台を見に行ってみようと思います。