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日めくり編集メモ 036

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東京から軽井沢まで、今だと長野新幹線で1時間あまりで着いてしまいます。この新幹線は長野オリンピックに合わせて開業しましたが、その引き換えに信越線の一部が廃止となりました。そこには急勾配で知られた横川―軽井沢間も含まれていました。

明治初年、東京―京都間の鉄道敷設を政府は検討していました。当初東海道ルートは既に便に恵まれているとして中山道ルートを計画しましたが、中部山岳地帯が予想外の難工事となり、結果1886年に東海道に変更されました。その中でも最大の難工事区間が横川―軽井沢間、すなわち碓氷峠越えでした。高崎―横川間は1885年に、直江津―軽井沢間は1888年に開通したのちも着工できなかったのです。

1891年、ラック式鉄道の「アプト式」を採用することになり、ようやく着工となります。この方式はスイス人鉄道技師ローマン・アプトが考えたもので、機関車の下にある歯車とラックレール(歯軌条)の歯が複数枚あり、そのいずれかが必ずかみ合うことによって急勾配を上っていきます。18ヵ所の橋梁と26ヵ所のトンネルが設けられ、1893年完成、開業しました。これによって上野―直江津間が全通したのです。

全通はしましたが、それでも最大1000分の66.7という急勾配は難所に変わりありません。そこを上ろうとした蒸気機関車の煤煙はすさまじかったのでしょう。トンネル入り口に防煙用の引き幕を設置し、列車が入ったあとにこれで閉鎖して列車に煙がまつわりつくのを防ぐとともに、通過後は開放して排煙していました。この悩みと輸送力増強のため、この区間は電化されることになりました。日本初といっていい電気機関車の本格的な導入でした。(037につづく)

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