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日めくり編集メモ 062

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その外見から「軍艦島」といわれた、長崎市から18キロ、野母崎からは僅か4.5キロの端島(はしま)。1974年に炭鉱が閉山し、忘れられた島でしたが、世界遺産を目指すNPO法人もあり、近代化遺産として脚光を浴びています。

隣の高島では18世紀初頭から石炭採掘が既に本格化していました。幕末、グラバー邸に名を残すトーマス・グラバーと鍋島藩が共同経営し、さらに二転三転の後に三菱の岩崎弥太郎が買収しました。その9年後の1890年に三菱が端島を買いとり、閉山するまでの84年間、良質な強粘炭を採掘し続けたのです。八幡製鉄所の製鉄用原料炭として使われ、日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。同時に、端島炭鉱にもいた朝鮮・中国からの労働者が直面した苛酷な条件も忘れてはなりません。

 

1916年に日本初の鉄筋コンクリート造高層住宅が建設されます。これは関東大震災後の同潤会アパートよりも10年早いものでした。炭鉱という場所柄、火災を恐れたこともあるのでしょう、次々と建てられる高層住宅群で島は覆われ、いよいよ軍艦のような外見になりました。島内には学校、病院、映画館や店舗、寺や神社まであらゆる生活関連施設が完備されていました。端島の人口は、1960年頃の最盛期には5000人を超え、人口密度が1ヘクタール当たり1400人と、当時の東京の9倍で世界一でした。

 

閉山後風化が進み、荒れる一方だった端島でしたが、折からの廃墟ブームもあり、注目は高まっていきました。端島を含めた「九州・山口の近代化産業遺産群」が2008年に世界遺産暫定リストに入り、さらにその翌年からは、観光客でも上陸しての見学が可能になりました。もっとも悪天候の場合は接岸できないようですから、孤島であることを実感させられます。廃墟の島に立ち、朽ちた建物を見上げると、この島に暮らした人々の息遣いが聞こえてくるかもしれません。

(参考資料:伊藤千行写真・阿久井喜孝文『軍艦島 海上産業都市に住む』岩波書店、NPO軍艦島を世界遺産にする会ホームページやまさ海運ホームページ

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