本間家は、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡にうたわれるほどの日本最大の地主でした。「ニッポン日記」を著したアメリカ人記者のマーク・ゲインが敗戦後の農地改革時に、この本間家を取材したことも有名です。改革の結果、本間家は1750町歩の農地を解放し、あとには本間農場4町歩が残りました(1町歩=約1万平方メートル)。
庄内地方には「ハンコよりマヤガラ」という言葉があります。ハンコとは印鑑、転じて顔かたちや表面の性質のこと、マヤガラは馬舎柄、すなわち家風や環境のことをいうそうです。酒田地方では農家も商家もわが子をワカゼ(年季奉公人)としてマヤガラのよい他家へ修業させる風習がありました。いわば「マヤガラ」の最上級が、この本間家といえるのかもしれません。
収蔵品は1968年建築の新館で主に展示されていますが、本館・清遠閣は本間家旧別荘として1813年に建てられたもの。酒田の迎賓館といわれ、茶室「六明廬」を備えた京風建築の建物そのものが芸術品です。農地改革で没落地主となった本間一族でしたが、戦後初の私立美術館として収蔵美術品を展示し、庭園を開放したのは、やはり「マヤガラ」の良さなのでしょう。
(参考資料:秋吉茂『駅弁の町《東日本編》』朝日ソノラマ、本間美術館ホームページ)