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日めくり編集メモ 112

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建設中の東京スカイツリーが見える新大橋通りの菊川橋。その橋の西詰めに小さな地蔵が鎮座しています。1945年の東京大空襲で亡くなった方々を慰霊するものです。地獄の劫火が下町一帯を焼き尽くしてから66年が経ちます。

東京大空襲は1945310日未明、米軍のB29が約300機来襲し、焼夷弾約2000トンを東京下町へ投下。折からの強風にあおられて大火災となり、焼失戸数27万戸、罹災者は100万人以上、死者は8万人とも10万人とも言われます。第1弾の投下が認められた08分から空襲警報解除の237分までのわずか2時間半で、これだけの甚大な被害を受けたのです。この菊川橋ではおよそ3000人が亡くなりました。東京への空襲は130回に及びますが、全死者の9割がこの日に集中しているのです。

 

310日は陸軍記念日に当たり、さらに翌11日の日曜日との連休だったため、めったに会わない家族が全員揃った一家は多かったようです。また3月ということで、疎開していた6年生の卒業準備のための帰省もありました。それが今生の別れになろうとは、誰が想像したでしょう。これだけの大空襲なのに、下町のすぐ南隣の豊洲にあった軍事産業施設である石川島造船所には大した被害はありませんでした。この空襲の目的は、一般人の大量殺傷であったことは明らかです。

 

東京の下町には現在でも川が縦横に流れていますが、焼夷弾の雨の中、逃げ惑う人々が熱さを逃れるためにその川へ殺到したといいます。しかし、炎の舌がひと舐めすればひとたまりもありません。川には無数の死骸が浮かび、その回収の状況はカメラマンの石川光陽さんの写真で見ることができます。この写真の橋こそ、菊川橋です。橋の袂に立つその地蔵は、悪夢を違えて善いことに転ずる願意から「夢違(ゆめたが)え地蔵尊」と名づけられました。310日には地元の人々によって法要が営まれています。

(参考資料:早乙女勝元編著『写真版東京大空襲の記録』新潮文庫)

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