自分の曲「ずっと好きだった」を「ずっとウソだった」とセルフカバーした斉藤和義さんに、世間は賛否両論。ただ、これに対して伊丹万作の「戦争責任者の問題」を引用して批判している人もいますが、少々違和感が残ります。この論には、総懺悔へと誘導し、責任の所在を拡散させようとする意図を感じてしまいます。
総懺悔といって思い出すのは一億総懺悔ですが、これは、敗戦直後に就任した東久邇宮稔彦首相が唱えたもので、「全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩」と記者会見で述べたことに由来します。この発言は、天皇の戦争責任を直接回避するためではないかもしれませんが、天皇制を維持しながら敗戦処理を行うためのものであることは確かでしょう。その後戦争責任追及の声が上がり、この言葉は責任逃れであると批判されました。
「戦争責任者の問題」で、伊丹は「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と書き、己はだまされた弱者であるとした人々の変わり身の早さにあきれ、怒りに満ちています。しかしそこだけではなく「国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである」という部分は、今回の原発事故と共通のものがあると思います。
筆者は、便利を追い求めた文明を反省し、原発問題に鈍感だった自分を大いに恥じておりますが、と同時に国や東電といったこの問題の責任者を追及することが成り立たないとは思いません。既に「がんばろう、日本」と毎日連呼される世の中、プロテストソングまであげつらわれてしまっては、いよいよ問題点は隠されてしまいます。ムードに弱いこの国だからこそ、問題を直視し、冷静に検証し、責任を追及していかなくてはなりません。