ゴールデンウィークも終わりました。この言葉、もともとは映画業界が連休が続くこの時期をそう呼んだことに由来します。その終わりに合わせたわけでもないでしょうが、東映の岡田茂名誉会長が5月9日、亡くなりました。
岡田さんは1924年、西条(現東広島市)の酒問屋に生まれました。東京帝大経済学部を経て東横映画に入社。悪童で鳴らした岡田さんは鼻っ柱が強く、文化人からチンピラまでいる当時の撮影所で次第に認められていきます。以前から温めていた戦没学生遺稿集の映画化に乗り出しますが周囲からは大反対に遭います。しかし「この映画は当たります」と大見得を切った『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は予想以上の大ヒットになりました。これが岡田さんのプロデューサーとしての第1作です。
大ヒットしても一向に経営状態は好転せず、東横映画はほか2社と合併し、1951年東映が誕生します。岡田さんは入社4年目、27歳で「現場の親分」である京都撮影所製作課長に抜擢されました。片岡千恵蔵、市川右太衛門、美空ひばりらスターが揃った東映は、「時代劇の東映」の名をほしいままにします。その後任侠路線への大転換も主導し、『人生劇場』『緋牡丹博徒』『網走番外地』シリーズ、さらには『仁義なき戦い』シリーズなどの実録路線へ。この間、輩出した映画人は数え切れません。
東映には際物的なエログロ路線もあって、タイトルは岡田さん自身がつけたと言われており、一部の映画は今やカルト的人気を集めています。また京都撮影所の一部を東映太秦映画村としましたが、これもテーマパークのはしりと言えるでしょう。時代劇からエログロまで、反戦映画からヤクザ映画まで、「映画が当たるなら、右も左も関係ない」という、ヒットの嗅覚にすぐれ、懐の深い「活動屋」でした。ちなみに岡田さんの長男で、かつては俳優として活躍した裕介さんが現東映社長です。
(参考資料:岡田茂『悔いなきわが映画人生』財界研究所)