去る19日、20年前に亡くなった竹中労さんを偲ぶ会「語やびら島唄」が、沖縄民謡界を代表する芸能人が多数出演して那覇市で催されました。竹中さんというと坊主頭の独特の風貌を思い出される方も多いことでしょう。
竹中さんは1930年東京生まれ。父は、江戸川乱歩の「陰獣」などで知られる挿絵画家の竹中英太郎です。17歳で日本共産党に入党し肉体労働に従事。その後芸能関係の記事を書くようになり、自らを「ルポライター」と称するようになります。大川橋蔵結婚、美空ひばり離婚など、女性週刊誌では数々のスクープを物し、芸能界に隠然たる地位を占めますが、竹中さんの心は世界革命にあったようで、キューバやパレスチナなどを度々訪れています。
竹中さんの名を知らしめたのは、1970年から週刊読売で始めた連載「エライ人を斬る」。当時の首相である佐藤栄作の夫人の干渉によって連載が中止させられますが、その後裁判を通じて読売新聞社と佐藤夫人の謝罪文を勝ち取りました。ことほどさように、敵に回すと厄介な人であったようです。その一方で、亡くなる直前にはテレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」で審査員を務め、バンド「たま」を評価して、彼らの本まで執筆しました。
このような会が開かれるのも、竹中さんの沖縄民謡界に遺した功績の大きさを語っています。復帰前の1969年に沖縄へ渡り、嘉手苅林昌、照屋林助らをはじめとする沖縄の芸能人と交流を深め、さきがけて本土に紹介しました。偲ぶ会には国吉源次、八木政男、知名定男、大工哲弘、大城美佐子、饒辺愛子、嘉手苅林次といった大御所のほか、元たまの知久寿焼さんが出演し、最後はカチャーシーでフィナーレ。冥界の竹中さんも喜んだに違いありません。
(参考資料:竹中労さんのページ、琉球新報2011年5月20日付)