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日めくり編集メモ 151

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16日、北陸地方が梅雨入りし、広い地域で長雨の季節に入りました。外を見るとアジサイが咲いています。ふと口をついて出た歌は「泡碧くかたまれる如(ごと)兄弟らあひ寄れる如あぢさゐ蕾(つぼ)む」。宮柊二の作です。

柊二は1912新潟県堀之内町(現魚沼市)生まれ。旧制長岡中学校在学中から歌を詠み、相馬御風主宰の「木蔭歌集」にも投稿していました。20歳の時、家業の衰退と失恋から上京。仕事を転々としたのち北原白秋に師事し、新幽玄体を標榜した多磨短歌会の会誌「多磨」創刊に参加しました。その後サラリーマン生活を経て応召、中国戦線で辛酸をなめます。第3歌集『山西省』は、このときの体験をもとに戦下の人間愛を詠んだものです。

 

戦後の1946年に第1歌集『群鶏』刊行。1948年、第2歌集『小紺珠』では時代についていけない戦中派の虚無感が暗く、しかし美しく抽象化されて表現されました。1953年にコスモス短歌会を主宰し、会誌「コスモス」を創刊。1960年にサラリーマンから足を洗いますが、この頃から糖尿病や関節リウマチなど病に悩まされます。生涯戦争の傷跡を負った孤独派といえるでしょう。一方、宮中歌会始の選者や日本芸術院会員なども務めました。

 

柊二は白秋から「君は暗い」「君の歌は瘤の樹をさするようだ」と常々言われていたとか。確かに白秋のような華やかさはありませんが、その歌は衒いのない真っ直ぐさが魅力です。柊二にはこんな歌もあります。「潮けぶりせるかの岸にあたらしき灯を連ねゐし原子力研究所」(『獨石馬』)。貧しく、苦労をした世代である柊二には、原発が「あたらしき灯を連ねゐし」と見えたのでしょうか。柊二は1986年、74歳で亡くなりました。

(参考資料:新潟県魚沼市宮柊二記念館ホームページ、宮英子・高野公彦編『宮柊二歌集』岩波文庫、粟津則雄『日本人のことば』集英社新書)

 

 昨年615日にはじまった「日めくり編集メモ」ですが、お蔭様で1周年を迎えることが出来ました。これからもご愛読のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

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