東京の新名所、東京スカイツリー。隅田川から見たスカイツリーそっくりの絵を江戸時代に描いた浮世絵師がいます。その名は歌川国芳。この9日から静岡市美術館で「没後150年 歌川国芳展」が開催されます(8月21日まで)。
国芳は寛政9年(1797)、江戸・神田の京染紺屋の柳屋の子として生まれました。幼少時より画才があり、15歳で初代歌川豊国に入門。豊国が没した後、「通俗水滸伝豪傑百八人之壱個(ひとり)」というシリーズを発表して人気を博し、「武者絵の国芳」の名声を得ました。風景画もよくし、前述のスカイツリーは火の見櫓と言われていますが、本当はどうなのでしょう。国芳の画風は、師である豊国のほか、勝川春英や兄弟子の歌川国直、さらには洋画の影響が見て取れます。
次第に国芳の作品に戯画が増えますが、エポックになったのが「源頼光館土蜘(つちぐも)妖怪作図」。これは天保14年(1843)作のもので、謡曲や芝居でも知られたエピソードを基にしたものですが、ここに描かれた頼光は実は将軍家慶、その横にいる卜部季武は老中水野忠邦、妖怪変化は「天保の改革」で弾圧された者たちであると大評判になりました。版元はこの絵を回収し、版木を削って幕府からの咎めを回避しましたが、これをきっかけに以後諷刺画が盛んになります。
ほかに、ほとんど現在の漫画のような筆致の『荷宝蔵(にたからぐら)壁のむだ書』、小さな人物が組み合わさって大きな顔をつくる『みかけはこはゐがとんだいゝ人だ』、さらに猫や金魚、ホオズキの実を擬人化したシリーズもあり、手を替え品を替え戯画を描き続けました。イラストレーターの山藤章二さんは、前進座公演「天保の戯れ絵〈歌川国芳〉」のポスターを描いた際に作者の飯沢匡さんから江戸戯画の手ほどきを受け、以降「戯れ絵師」という言葉を使うようになりました。
(参考資料:「没後150年 歌川国芳展」公式サイト、大久保純一『浮世絵』岩波新書、山藤章二『アタクシ絵日記忘月忘日5』文春文庫)