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日めくり編集メモ 219

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1944年12月7日、三重県尾鷲沖の遠州灘でマグニチュード(M)7.9の地震が発生しました。静岡・愛知・三重の太平洋岸での被害が大きく、伊豆半島から紀伊半島の間を津波が襲いました。昭和東南海地震と呼ばれます。

この地震による死傷者は4057人、全半壊家屋は73080(異説もあり)。中でも、当時の兵器・航空機・電気機器などの工場が集中する愛知県の軍需工場では3分の1が壊滅し、交通や通信が麻痺したことで生産は中断。また津波が広い範囲を襲い、熊野灘沿岸では6から8メートルにまで達しました。被害が広がる中、軍部は秘密保持のため、地震について厳重な報道管制を敷いたのです。

翌日8日は日米開戦3周年の記念日ゆえ、悪化する戦況もあって戦意高揚の記事ばかりでした。中部日本新聞(現中日新聞)は「天災に怯まず復旧、震源地点は遠州灘」とわずか2段の見出し。被災者にはどこからも救援はなく、壊れた家から布団を持ち出し、夜空を仰いで寝たという証言もありました。しかしアメリカは地震計で発生や規模など全てを把握、知らぬは日本国民ばかりでした。

紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)ではM8.0前後に達する規模の海溝型地震が約100年から150年周期で発生しています。この地震のおよそひと月後には三河地震、さらに1946年12月には南海地震。この3つの地震での死者は5000人近く。今回の東日本大震災を例に出すまでもなく、自然の前に人間がいかに無力か、日本がいかに地震国か、痛感させられます。

(参考資料:『国史大辞典』大修館書店、『昭和 6』講談社、『中日新聞創業百年史』中日新聞社)

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