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映画『瞳は静かに』を見て。

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 映画館のスクリーンにエンドロールが流れ始めた瞬間、思わず深く深く息を吸い込んだ。見ている間じゅう、ずっと締め付けられるように胸苦しくて、息が詰まりそうだったから。

 現在、東京・新宿などで公開中の映画『瞳は静かに』の舞台は、1970年代後半のアルゼンチン。当時、クーデターで成立した軍事政権の支配下にあったこの国では、反体制派とみなされた人々が軍によって密かに連れ去られ、殺害されるという事態が頻発していた。1983年の民政移管までの間に、死亡または行方不明になった市民の数は、3万人(26万人という説も)にものぼるという。

 といっても、この映画の主題になっているのは、軍事政権そのものへの批判や告発ではない。描き出されるのはその時代を生きていた「ふつうの人たち」の姿だ。(以下、少々ネタバレありです)

 主人公は、母親と兄と3人でアルゼンチンの地方都市サンタ・フェに暮らす8歳の少年、アンドレス。経済的には貧しいけれど(そして、時々訪ねてくる母親の恋人が少々目障りではあるけれど)、愛情に満たされて幸せだったアンドレスの日常は、ある日母親の事故死によって終わりを告げる。

 兄とともに引き取られた先は、離れて暮らしていた父親と祖母の家。ルールに厳格ですぐに怒号をあげる父親との、それまでとはまったく違う生活は、アンドレスを戸惑わせる。なぜ母親と暮らしていた家に行ってはいけないのか。なぜ父親は、母親の遺品をすべて焼き払おうとしたのか。優しい祖母も、アンドレスの疑問に答えてはくれない。

 アンドレスの父親や祖母が「悪い人間」だというわけではない。物語の冒頭、外で遊んできたアンドレスを家で迎える祖母の姿は、孫への愛情に充ち満ちているし、父親も少々かんしゃく持ちではあっても、きちんと息子たちを可愛がろうとする「ふつうの父親」なのだ。

 けれど彼らは、自分たちの今の生活を守るために、さまざまなものに対して「見ないふり」を続ける。アンドレスの母親が、恋人から預かって隠していた反体制運動のビラ。アンドレスが夜中に窓から見た、誰かが誰かに暴行を加えられている光景。そして翌日の朝、道路に残されていた赤い血痕…。すべてを「なかったこと」にしようとし、ときにそこからはみ出ようとするアンドレスを、権威でもって抑えつけようとする。

 何も見なかったふりをしておけば、平穏が守られるから。真実を語るよりも、周囲に合わせていたほうが安全だから――。その、欺瞞に満ちた日常はしかし、明るくやんちゃな少年だったアンドレスの瞳を少しずつ少しずつ陰らせていく。そして、ついには背筋が冷たくなるような、衝撃的なラストシーンへとつながっていくのだ。

***

 終了後のトークショーで、作家の星野智幸さんが「見終わった後、これは今の日本の現実そのものだと思った」と語っていた。映画を見ている間じゅう、ずっと息苦しくてたまらなかったのは、多分、だからなのだと思う。

 もちろん、今の日本に軍事政権はない。表現や思想の自由もある(ことになっている)。でも、起こっていることから目をそらし、厄介なことや人に対しては見ないふりをして、周囲からはみ出さないように注意しながら暮らしていく。そんな社会のあり方は、そのまんま今の日本にもあてはまるんじゃないだろうか。以前、小さい子どもを持つお母さんたちが、「放射能のことが心配だけど、それを口にしたら周りの人たちから距離を置かれるようになった」と異口同音に話していたのを、思い出さずにはいられなかった。

 民政移管から四半世紀以上が経った今も、アルゼンチンでは子どもを奪われた母親たち、さらに誘拐された子どもが生んだはずの孫の行方を探し求める祖母たちなどが、真相究明を求める悲痛な声をあげ続けている。軍政の抑圧が残した傷跡は、あまりにも大きい。そしてそれを支えたのは、「見ないふり」を続けた無数のアンドレスの父親たちであり、祖母たちだった。

 30年以上前の、遠い遠い南半球の国の話。けれどそこに描かれていることは、私たちにとって決して遠くも、無関係でもないはずだ。(riyu)

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