1月14日・15日、パシフィコ横浜で開催された「脱原発世界会議」に行ってきました。参加者は2日間で1万人以上、Ust中継などの視聴者は10万人以上。会場の熱気もさることながら、年齢層もばらばらの、本当に多彩な人たちが集まってきていたのが印象的でした。
「世界会議」とはいっても、一つの大きな「会議」があるのではなく、いくつもの会場で同時並行にさまざまなイベント――シンポジウムだったり講演だったり、ワークショップやライブだったり――が催され、参加者は配布されたプログラム片手に、イベントや展示ブースなどを自由にめぐるという仕組み。福島第一原発事故の実態、代替エネルギーの可能性やその海外事例、被曝労働者からの訴え、地方自治体が探る脱原発への道のり、福島の人たちが置かれている現実とその支援について…。多様なテーマの企画がある中で、個人的に強く印象に残ったのは、いくつかの企画の中で聞いた福島の人たち(他県へ避難している人たちも含め)の言葉でした。
例えば、福島・二本松市で有機農家を営む菅野正寿さんの話。
「畑の表土を剥いで除染を、というけれど、土の表面を剥ぐということは、じいちゃんばあちゃんの代から耕し続けて来た、一番大事な土を失うということ。私たちはそれよりは、農民の技術を使って、科学的なデータにも基づいて、農業を続けていくほうを選びます」
菅野さんは、3・11以降、草を刈って何度も畑を耕し、畑の線量を下げるという作業を何度も繰り返し続けてきたといいます。福島の土壌は粘土質で、セシウムを土中に固定して農産物への移行を防いでくれるため、収穫した作物の線量は、政府が定める暫定基準値より(さらに言えば、ウクライナなどの基準値よりも)はるかに低いのだそう(菅野さんの取り組みについては、渥美京子さんのコラムに詳しく書かれています)。
「次の世代のためにも土地を再生して、営みを続けていかなくてはならない。農業をやめるということは、すべてのやりがいを失うということなんです」。きっぱりとしたその言葉に、農家としての強烈なまでのプライドを感じました。
あるいは、南相馬市「ふるさと再生」を掲げる地元住民グループの活動に携わるある女性の言葉。
「“安全”“危険”“わからない”。三つの意見に、私たちは今も振り回され続けています。逃げて良かったのか、留まっていていいのか、誰もが毎日悩んでいる。『避難しない』ことで責められることもあるけれど、そこには『避難できない』理由があります。私たちが今、福島で生きている。そのことを理解してほしいんです」
同じグループのメンバーの女性のこんな言葉もまた、強く胸に響きました。
「(みんなが別の土地へ移り住んで)誰もいなくなったら、南相馬は消滅してしまう。日本全体から見れば、消滅したって大したことはないのかもしれないけれど…。でも、私たちがどうやったらここ(南相馬)で生きていけるのか、皆さんにも一緒に考えてほしい。それをお願いしたいんです」
「放射線量が高い」と聞けば、外にいる私たちは「すぐに避難を」と考える。それが間違いだ、とは思いません。けれど、汚染の危険性を指摘し、避難だけを呼びかける、その行為はときに、その土地で暮らし、生活を積み重ねてきた人の思いを無視することにもなりかねない、のかもしれない。
より安全な土地へ逃げたい、移り住みたいと願う人がいる一方で、同じくらいの思いの強さで、住み慣れたその地にとどまりたい、そこで生きていきたいと願う人もたしかにいる。前者を支援することが重要なのは当たり前だけれど、後者の人たちのことを考えることもまた、絶対に必要なんじゃないか…。そんな思いが、ぐるぐると渦巻きました。
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正直なところ、今も自分の中で明確な答えは見えません。子どもや妊婦さんについては、やっぱり別の場所へ移ったほうがいいのではないか、と思うし、特に小さい子どものいる人が、「福島産」の文字がついた農作物を手に取ることにためらいを抱く気持ちもわかる。そして同じ「福島の農家」であっても、「食べて応援」はとんでもない、という人もいる。どこで線を引けばいいのか、どう向き合えばいいのか…。考えれば考えるほど、おろおろと迷うばかりです。
ただ、「脱原発」をいうときにも、「放射能汚染の危険性」をいうときにも、今まさに悩み、迷いながら、なんとかそこで生きていこうとしている人がいるということは、常に胸に留めておきたい。独りよがりに思いを押し付けるのでなく、とにかく可能な限り、個別の声に耳を傾けたい。そこから動いていくしかないんじゃないだろうか。そんなことを、ずっと考え続けています。(n)