あの立川談志さんが「一番よくいじめられた」とぼやいたくらいですから楽屋内では強面で通っていたのでしょう。小朝さんの師匠と言ったほうが通りが早いかもしれませんが、5代目春風亭柳朝さんが亡くなったのは1991年2月7日でした。
5代目は1929年東京生まれ。海軍の衛生兵などを経て1950年、5代目蝶花楼馬楽(その後8代目林家正蔵→彦六)に入門し、林家小照を名乗ります。一時期廃業しますが1952年、再入門し正太に。翌年照蔵で二つ目。1962年5月真打昇進し、5代目春風亭柳朝を襲名しました。林家に入門したのに亭号がなぜ“春風亭”かというと、7代目正蔵(海老名家)から「林家正蔵」の名跡を一代限りの条件で借り受けていた師匠(当時の正蔵)が海老名家に配慮して、総領弟子の真打昇進時に替えさせたのでした。
この柳朝の名跡は、初代は明治初期を代表する落語家2代目春風亭柳枝の前名という名門。5代目の芸風は、江戸っ子の粋と鯔背を体現したようで、口調はあくまで歯切れよく、豪放に見えて小粋にまとめる洒落ていました。1960年代はテレビ・ラジオでも顔を売り、談志さん、志ん朝さん、5代目圓楽さんとともに四天王の一角に。志ん朝さんとはライバルでしたが、「二朝会」という二人会を開いていました。森田芳光監督の映画『の・ようなもの』にも自身を髣髴とさせる有名落語家役で出演しています。
絶頂期に脳梗塞で倒れ、8年間の療養生活のち亡くなりましたが、5代目の評伝『江戸前の男 春風亭柳朝一代記』を著した吉川潮さんは次のように書きました。「林家正蔵という師匠に恵まれ、おかみさんに恵まれ、弟子たちに恵まれ、死して尚、大勢の人に偲ばれるのだから、柳朝は芸人として幸せ者だと言えよう」。5代目の意気を受け継ぐ面々は、弟子に一朝さん、小朝さん、正朝さん、勢朝さん、半七さんがおり、孫弟子も6代目柳朝さんや21人抜きで来月真打に昇進する一之輔さんなど多士済々です。
(参考資料:橘左近『東都噺家系圖』筑摩書房、吉川潮『江戸前の男 春風亭柳朝一代記』新潮社、〜Le Matin〜春風亭正朝公式サイト)