49年前の1963年2月10日、福岡県門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市の5市の対等合併により北九州市が発足しました。大都市の仲間入りを目指しての、九州初の100万都市の誕生でした。
この地域は山口県下関市も含めて大きな経済圏であり、合併は戦前からの宿願でもありました。最初は1899年、関門海峡を挟んだ門司と下関に合併の機運があると、イギリスの外交官アーネスト・サトウが記しています。その後もいろいろな形での合併話が出ては消えていきました。下関と相対する門司、城下町の小倉、製鉄の戸畑と八幡、石炭・海運の若松と、それぞれの町の特徴があり、合併への姿勢に濃淡があったからです。
戦後になって道路や電話網などが整備され、また病院やゴミ処理などの共同運営の進展で5市の住民の間に一体感が醸成されてきました。その象徴は1962年開通の若戸大橋で、当時は東洋一の吊り橋でした。前後しますが1960年2月10日の5市の市長会で、八幡市長から合併の正式提案があり了承。しかし、市役所の場所、行政と財政の格差、市会議員の減員など問題は山積で、これらを一つ一つ調整していきました。
この合併はエネルギー革命の影響を否が応にも受けざるを得ませんでしたが、逆に「煙の町」というイメージを払拭すべく、「太陽と緑のまち」をテーマに多極分散型のまちづくりを進めました。歴史をひもとくと、補助金をエサに国主導で行われたいわゆる「平成の大合併」で誕生した市町に比べ、その進め方は実に丁寧な印象があります。100万を切ってしまった北九州市の人口ですが、現在でも西日本の非県庁所在地では最大の都市です。
(参考資料:『角川日本地名大辞典40 福岡県』角川書店、北九州市ホームページ、ふるさと歴史シリーズ:北九州に強くなろう「五市合併」西日本シティ銀行ホームページ)