花まつりの4月8日は近代俳句の第一人者、高浜虚子の忌日でもあります。ある俳人はこの日を次のように詠みました。「芭蕉蕪村子規経て我等虚子忌かな」大橋桜坡子
虚子は本名清。1874年、松山市に池内家の5人兄弟の末子として生まれました。池内家は能楽の家として知られます。9歳のときに祖母方の家を継ぎ高浜の姓に。1891年、愛媛県伊予尋常中学(現愛媛県立松山東高校)の学友河東碧梧桐を介し正岡子規の知遇を得ます。虚子と碧梧桐は子規門の2高弟として重きをなしました。1897年、子規の協力を得て柳原極堂らが創刊した「ほとゝぎす」を、俳句以外の和歌、散文などを掲載する新生「ホトトギス」として再出発させました。夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊つちゃん』が連載されたことは有名です。
子規の死後、虚子と碧梧桐はそれぞれの文学観を醸成させてゆく中で、次第に対立的になっていきます。伝統的な五七五調、季語、平明さ、余韻などを重んじるべきであると考えていた虚子は、自由律など新傾向と呼ばれた勢力を作り始めた碧梧桐に対抗するため、その頃没頭していた小説の筆を折り、1913年、「春風や闘志いだきて丘に立つ」と詠んで俳壇復帰を果たしたのです。以降、俳句の創作と弟子の育成に注力するようになり、漱石の連載終了とともに経営難だった「ホトトギス」は膨大な数の投稿者を抱える大雑誌へと成長しました。
1928年、虚子は「花鳥諷詠」の説を明らかにし、さらに「客観写生」を加えて「俳句の真髄」であるという理念を掲げ、それを伝統俳句の王道として隆盛を極めました。虚子門から輩出された人材は数知れず。彼が大きくした「ホトトギス」は現在でも刊行されており、その息の長さに驚かされます。虚子は明治、大正、昭和と、その長きにわたって俳壇の王座に君臨したといっても過言ではないでしょう。 生涯に詠んだ句は20万句以上。俳人として初めて文化勲章も受章しました。1959年没。鎌倉市の寿福寺にある彼の墓には「虚子」とのみ刻まれています。