1956年5月19日、新たに設置された省庁は「科学技術庁」。その後の科学技術行政の総本山として君臨していましたが、2001年の省庁再編によって、文部省と統合されて文部科学省となりました。
科学技術庁設置法案は1954年、右派社会党代議士だった松前重義ほか7名の共同提出で提案。設置に至るまで、経済同友会の「科学技術促進対策」、経団連の「科学技術総合行政機関設置の要望」の建議が行われ、財界からの強い支援がありました。この同年に青年将校といわれた中曾根康弘・改進党代議士が原子力予算を成立させたところを考えると、気脈を通じてでもいたのでしょうか。
初代長官(国務大臣)は正力松太郎。同庁の業務は科学技術に関する総合企画調整、振興基盤強化活動もありましたが、何より先導的・基盤的科学技術推進が主なものでした。宇宙開発などがあったにせよ、最も力を傾注したのが原子力政策。「プルトニウム入りの水を飲んでも安心」というビデオを作ったことで知られる動力炉・核燃料開発事業団(動燃)も同庁所管の特殊法人でした。
太平洋戦争末期に、2度の原子爆弾投下で壊滅的な惨禍を受けた日本が、敗戦後核エネルギーの非軍事活用に力を注いだことは、平和を希求する心からだったと信じたいのですが、その推進の裏に、事故など数々の問題があったことはご承知の通り。しかし、それを「平和利用」という美名の下に覆い隠す重要部分を担ってきたのが、まさに一貫して原子力を所管する科学技術庁だったのです。