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日めくり編集メモ 296

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きょう610日は、フランキー堺さんの17回忌です。ドラマー、俳優、テレビタレント、司会者、落語家、大学教授、そして東洲斎写楽の研究家など八面六臂の活躍で知られました。

フランキーさんは1929鹿児島県生まれ。子どものときに一家で東京へ移り、麻布中学へ進学。同級生に小沢昭一さん、加藤武さんがおり、生涯の友人となります。慶大在学中にジャズドラムに夢中になり、進駐軍キャンプでも演奏。プロとして幾つかのバンドを経て、冗談音楽で有名なスパイク・ジョーンズの影響を受けた「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を1954年に結成します。のちに「クレイジーキャッツ」に参加する植木等さんや谷啓さん、桜井センリさんも在籍していました。

 

その一方、俳優としても活躍を始めます。1957年、川島雄三監督『幕末太陽』の主役・居残り佐平次を演じて、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。映画への出演は、『駅前』『社長』両シリーズといった喜劇から、『モスラ』などの特撮まで多彩。また草創期のテレビドラマの名作『私は貝になりたい』の主人公・清水豊松というシリアスな役を演じきって、個性派俳優として確固たる地位を占めます。1980年から92年まで続いた『赤かぶ検事』シリーズも良質な社会派テレビドラマでした。

 

フランキーさんは私財を投じて写楽の研究を行っていました。1987年、食道動脈瘤破裂で倒れてしまいますが、闘病の後、かねてから温めていた写楽の映画製作に乗り出します。実は『幕末太陽傳』の川島監督とは、写楽の映画を作ろうと約束していたのが、監督の急逝で果たせず、言わばその“弔い合戦”だったのです。1995年、篠田正浩監督『写楽』では製作総指揮、脚色、さらに蔦屋重三郎役でも出演。まさに自身の生涯の総決算のような作品を遺し、その翌年亡くなりました。

(参考資料:フランキー堺『芸夢感覚』集英社)

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