水俣病研究の第一人者である原田正純さんが6月11日、77歳で亡くなりました。水俣病をはじめとする国内外の公害研究に捧げた半生だったといえるでしょう。
原田さんは1934年、鹿児島県生まれ。熊本大学医学部を卒業後、同大大学院神経精神科教室に入室。1959年、NHKのテレビ番組「日本の素顔」で取り上げられた水俣病患者を見て大変なショックを受けたのが、原田さんとこの病気との長いかかわりの始まりでした。その2年後、実際の患者に会って、病態のひどさと多様さに驚かされます。以来原田さんは水俣に通い続け、研究に生涯を捧げようと決意するのです。
この頃、魚を食べていないはずの子どもたちに起こっていた異常は謎とされていました。当時の医学では、胎盤は化学物質を通さないというのが通説だったからです。原田さんは足しげく患者宅に通って症例を集め、1962年、胎盤を経由したメチル水銀中毒である胎児性水俣病の存在を立証しました。水俣病第1次訴訟の原告支援を目指した水俣病研究会に参加するなど、患者から学ぶ原田さんの姿勢は一貫していました。
水俣病のほかにも、1963年の三池炭鉱爆発事故による一酸化炭素中毒や1968年のカネミ油症患者の医療、さらには海外での水銀汚染やヒ素中毒、ベトナムの枯れ葉剤の影響の調査など、徹底して現場にこだわり、患者の立場に立っていました。熊大ののち教鞭をとった熊本学園大学では、学際的に水俣病問題を考える「水俣学」を提唱。東電福島第一原発事故後もつい最近まで、水俣病の失敗に学べと訴えていました。
(参考資料:原田正純『水俣病』岩波新書、「急接近:原田正純さん 水俣病の失敗に学ぶ原発事故対策とは?」毎日新聞2011年12月3日付)