「黒田軍団」と言われた最強の社会部を率いた伝説の新聞記者・黒田清さん。日本ジャーナリスト会議が制定する「黒田清JCJ新人賞」にその名を残す彼ですが、明日7月23日で13回忌です。
黒田さんは1931年、大阪・天満生まれ。旧制第四高等学校を経て、京都大学経済学部卒業後、1952年に当時の大阪読売新聞社に入社しました。社会部に配属され、2年で遊軍に抜擢。山口県宇部市の暴力追放キャンペーン(1958年)や、山陽特殊製鋼倒産を扱った連載記事「ある倒産」(1966年)などヒット企画を連発しました。1975年、社会部次長時代に「新聞記者が語り継ぐ 戦争」の連載が開始され、この記事をきっかけに遺品などの展覧会が催されるほどの反響が。この「戦争」は菊池寛賞を受賞しています。
1976年、社会部長就任。この頃から、最強の社会部と言われ、いつの間にか「黒田軍団」と呼ばれるようになりました。1979年の三菱銀行猟銃人質事件の際、今では当たり前となっている全ての動きを記した「ドキュメント」記事を掲載。また1980年に始まったコラム「窓」は、交通事故遺族や被差別者ら弱者への共感に溢れ、すぐに人気連載になりました。しかし、1984年元日の社説で右傾化宣言した渡邉恒雄氏の意を体した上司に疎まれるようになった黒田さんはその3年後、退社します。同時に「窓」も連載を終えました。
退社後、フリージャーナリストとして「黒田ジャーナル」を主宰し、「窓」の元読者が集まった「窓友新聞」を発行。ここでも黒田さんは、弱い立場の人に寄り添うことを決して忘れませんでした。テレビ、ラジオ、新聞でも活躍、日刊スポーツ(大阪本社版)での連載は亡くなる寸前まで12年間休まず続きました。1997年に膵臓癌が見つかり、手術は成功しましたが、2000年肝臓に再発、7月23日に息を引き取ったのです。黒田さんの死を大きく報じた新聞は数多くありましたが、読売新聞に掲載された訃報は、一段のベタ記事でした。
(参考資料:有須和也『黒田清 記者魂は死なず』河出書房新社)