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日めくり編集メモ 337

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きょう916日は、往年の映画スター・市川右太衛門の命日です。戦前・戦後を通して活躍し、映画出演総数は360以上俳優の北大路欣也さんは彼の次男です。

右太衛門は1907年、大阪生まれ。5歳のときから山村流の日本舞踊を始め、その伝で『菅原伝授手習鑑』の菅秀才で初舞台。小学校を卒業する頃、宙乗りやケレンを得意とした市川右團次の門下となり、右一という名を貰います。1925年、マキノプロに入社して芸名を右太衛門と改め『黒髪地獄』前後篇で映画デビュー。日舞で鍛えた型の美しさ、手数の多い剣さばきでたちまち美剣士スターとしての名声を博します。1927年、当時流行していた時代劇スターのプロダクション設立の風潮に乗り、独立して市川右太衛門プロダクション(右太プロ)を興しますが、右翼やヤクザが群がり、関係者の利権が錯綜。この中には後の右翼の大物、笹川良一も介在していました。

 

それでも右太プロは松竹と配給提携を結び、経営が安定。右太衛門と製作スタッフは映画一家的に繋がっていたといいます。小プロダクションでは対応できないトーキーの時代となり、1936年新興キネマへ。6年後、映画統制で大日本映画製作(後の大映)が発足、ここで阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎と4大スターが揃い踏み。この4人の顔合わせによる創立記念映画が作られましたが、なかなか呼吸が合わず苦労したようです。終戦後も時代劇スターとしての正道を歩み続け、大映との契約切れとともに東横映画に千恵蔵とともに移籍。1951年、東横ほか2社の合併で現在の東映が発足し、千恵蔵と並んで取締役に選任、いわゆる「重役スター」となったのです。

 

この頃、「時代劇は東映」と言われ、まさにその屋台骨を支える右太衛門は住所に因んで「北大路の御大」と呼ばれました。右太プロ時代から彼の極め付きとなった『旗本退屈男』が多く製作され、毎年配収ベスト10に入る人気作品に。しかし1963年以降、東映は任侠路線へ方向転換。1966年退社し、京都の豪邸も処分し東京に移り住みます。その後は四半世紀にわたって舞台を中心に活躍、老いてなお「旗本退屈男」を演じ続けました。1986年の俳優祭では同音の誼で6代目中村歌右衛門が「女・旗本退屈男」に扮して共演、観客を喜ばせたことも。彼の豪快でざっくばらんな芸風は人々に愛されました。1999年、この世を去りましたが、独特の高笑いが思い出されます。

(参考資料:『日本映画人名事典 男優編〈巻〉』キネマ旬報社

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