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日めくり編集メモ 397

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広島を訪れる修学旅行生などに原爆の悲惨さと戦争の愚かさを身をもって伝えつづけた、いわゆる「原爆乙女」の山岡ミチコさんが2月2日、82歳で亡くなりました。

山岡さんは1930年生まれ。父を3歳のときに亡くし、母と2人暮らしでした。原爆が投下された1945年8月6日、高等女学校3年生の山岡さんは学徒動員に向かう途中、爆心地から800メートルの地点で被爆。その日、なぜか家を出るのが億劫で、いつもより遅く家を出たことが生死を分けました。田舎から出てきていたという幼いいとこは、彼女より少し早く家を出たまま、未だに骨すら見つかっていません。

顔や手に重い火傷を負い、ケロイド症状になってしまった山岡さんは、人前に出ることを避けるようになりました。前途に希望を失い自殺も考えていた山岡さんでしたが、ずっと彼女を支えたのは働き続けてくれた母。1955年、米国のジャーナリストであるノーマン・カズンズらがケロイド手術のために若い女性25人を米国に招待。この治療を受けた女性を「原爆乙女」といいますが、その1人となりました。

27回もの手術、それでも手や首に痕が残りました。帰国してからは「生き残って申し訳ない」と被爆の話を避けていましたが、最愛の母の死をきっかけに1979年から証言活動を始めます。広島を訪れる修学旅行生、外国からの観光客相手はもちろん、米仏など海外を訪れての講演も。2006年に脳梗塞で倒れてからもリハビリに励み、命の続く限り「全世界にヒロシマの心を」と証言を続けていたのです。
 (参考資料:「山岡ミチコさん死去 被爆し渡米治療、82歳」中国新聞2013年2月4日付ワールド・フレンドシップ・センター被爆証言活動:被爆体験記

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