沖縄芸能の「ご意見番」として親しまれた崎間麗進さんが19日、91歳で亡くなりました。唄者・登川誠仁さんの死とともに、沖縄は悲しみに包まれています。
崎間さんは1921年、那覇市泉崎生まれ。子どもの頃から組踊など芸能に親しみ、17歳のときに、近代古典舞踊、筝曲の重鎮である玉城盛重に入門。しかし身に着けられないまま応召、台湾で敗戦を迎えました。夜間歩哨に立った崎間さんは、父母のことを思いながら、上い口説(ぬぶいくどぅち)、赤田風などの沖縄舞踊曲を闇に向かって口ずさんでいたそうです。
戦後は建設業界に身を投じ、泡瀬構作隊、仲地組を経て1969年から1989年まで金秀建設専務。一方、琉球芸能中興の祖と呼ばれる真境名由康のもとに通って、沖縄の芸能・風俗の研究を進め、1975年に発足した沖縄芸能史研究会の2代目会長や、琉球大学非常勤講師を務めました。その研究範囲は幅広く、沖縄の芸能や民俗の「生き字引」と呼ばれたほどでした。
また青少年育成にも尽力した崎間さん。不登校の子どもの教育問題にも正面から取り組み、県少年補導員会連絡協議会、県防犯協会連合会などの要職を多く歴任しましたが、その視線は温かく、庶民に寄り添ったものでした。崎間さんの祖は、琉球に陶芸技術を伝えて帰化した朝鮮の陶工・張献功(?-1638)。名前に入った「麗」の字はその名残だということです。
(参考資料:『沖縄人国記』琉球新報社、上原直彦『浮世真ん中』沖縄タイムス社)