「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血が滲んだように赤く、その香りは汗の匂いがする」――このナレーションを覚えている方もいるでしょう。このドラマ『細うで繁盛記』の作者、花登筐(はなと・こばこ)が亡くなったのは1983年の明日10月3日でした。
花登は1928年、滋賀県大津市の近江商人の家に生まれました。戦後になって地元で劇団を旗揚げしましたが借金を抱えてしまい、母親から「芝居厳禁」を言い渡されて大阪の綿糸問屋に入社。ところが過労から肺結核になり、好きなことをして死にたいと芝居の世界に再び飛び込みました。勃興期の放送作家を振り出しに、東宝の経営するヌード劇場「OSミュージック」の幕間のコントを書く座付作家になったのです。この劇場で出会ったのが芦屋雁之助・小雁兄弟や大村崑でした。
花登の脚本による、崑、小雁や佐々十郎、茶川一郎ら若手コメディアンを揃えた『やりくりアパート』が彼の出世作です。番組の面白さのほかに、スポンサーであるダイハツの小型オート三輪「ミゼット」のCMも話題となり、1959年7月には視聴率50.6%をたたき出しました。さらに『番頭はんと丁稚どん』では、降板した佐々の代わりを務めた雁之助の人気が急上昇。こちらも裏番組のNHK『私の秘密』を抜いて最高視聴率は69.1%を記録し、花登は大阪で押しも押されもせぬ人気脚本家となります。
その後花登は『船場』『あかんたれ』『どてらい男(やつ)』など、前述の『細うで繁盛記』のような「ど根性商人ドラマ」にシフトしていきます。生涯に書いた脚本・小説は約6000本。大阪から東京までの車中で1本書き上げることから「新幹線作家」とまで言われました。しかし作品に誇りを持ち、代筆を許さぬ彼の性格が敵をつくったことも。多忙さもあって病に倒れ、肺癌のため55歳の若さで死去。生まれ故郷の琵琶湖畔には花登の石碑があり、このように刻まれています。「泣くは人生/笑うは修業/勝つは根性」
(参考資料:読売新聞大阪本社文化部編『上方放送お笑い史』読売新聞社)