1956年5月1日、公式確認された水俣病。水俣市ではきょう犠牲者慰霊式が開かれますが、この場所、エコパーク水俣親水緑地はかつて廃水が放出されていた水俣湾を埋め立てたところです。
1950年代前半から「奇病」として社会問題になっていた水俣病は、チッソ付属病院長の細川一医師が保健所に「原因不明の患者発生」を報告したこの日を公式確認とされています。しかし、この日は被害者にとって、ただの通過点でしかありませんでした。廃水はさらに流され、政府の公害認定はさらに12年後のこと。2004年に最高裁は政府の責任にまで言及した判決を下しましたが、この間どれだけの被害者が苦しみ、亡くなっていったことでしょう。
筆者は3月末、水俣市立水俣病資料館と水俣病歴史考証館を訪れました。水俣メモリアルから見下ろす不知火海は、春の日差しを受けてきらきら輝いていました。豊饒の海で働く喜びどころか、漁民や被害者の存在そのものを否定した水俣病の罪深さ、醜さと対照的に美しい海が広がっていました。病気のイメージは強いですが、それを教訓に環境面では先進的なこの町・水俣。また、美味しいチャンポンやスイーツなどでの町おこしも始まっています。
水俣病被害者救済特別措置法による救済策の申請は7月で締め切られるということですが、先日の小欄でも取り上げた横光環境副大臣の発言もあって、被害者を切り捨てるための幕引きなのではないかと考えてしまいます。さらに、国の基準の是非が高裁段階では分かれており、この結論は最高裁に持ち越されており予断を許しません。しかし、水俣病の症状に苦しむ、救済を受けるべき被害者がいる限り、決して「水俣病は終わっていない」のです。
(参考資料:原田正純『水俣病』岩波新書)