映画界の長老、新藤兼人監督が5月29日、100歳で亡くなりました。新藤さんの作品は国際的にも高い評価を受けましたが、反戦平和や人権問題などの発言も活発に行いました。
新藤さんは1912年、広島県生まれ。11歳のとき尾道で見た山中貞雄監督『盤嶽の一生』に感激して映画を志すようになりました。人気の映画界への道は難しいものでしたが、何とか新興キネマに潜り込み、その後名匠溝口健二監督に師事。松竹に移籍して『安城家の舞踏会』などの脚本家として活躍しますが、1950年、独立プロダクションの先駆けとなる「近代映画協会」を設立し、翌年、『愛妻物語』で監督としてデビューしました。
1952年、広島の原爆禍を描いた『原爆の子』を発表、カンヌ国際映画祭にも出品し世界的な反響を巻き起こします。わずか予算550万円、キャスト2人、スタッフ11人、撮影期間1ヶ月で作り上げた1960年の『裸の島』はモスクワ国際映画祭でグランプリを獲得し、一躍世界の映画作家の仲間入りをしました。その後も旺盛な制作欲はとどまることを知らず、98歳で『一枚のハガキ』を監督引退作とするまで関わった映画は数え切れません。
新藤さんは、脚本を書いた作品『陸に上がった軍艦』の公開に併せてマガジン9のインタビューに答えてくださいました。二等兵として32歳で召集され、年下の上等兵にこき使われ、同期の若者が前線に送られた自身の経験を土台とした反戦の思いは実に熱いものでした。新藤さんはこう語っています。「国のために個があるんじゃない、個が集まって国をつくっている、だから個が大事なんだ。しかし、戦争はその個を破壊するのだ」と。