きょう9月21日は5代目古今亭志ん生の命日。先日、三遊亭圓生について触れましたが、彼と一緒に行った満州(現中国東北部)での慰問は、井上ひさしさんの戯曲『円生と志ん生』のモチーフになりました。
志ん生は1890年、東京・神田亀住町生まれ。祖父は直参旗本でしたが、父が道楽者で貧乏暮らし。尋常小学校卒業後職を転々としますが、落語には興味があったようで天狗連に出入りし、1910年に2代目三遊亭小圓朝に入門、朝太の名前を貰いました。その後15回に及ぶ講釈師への転業を含め改名や襲名を経て、1934年に7代目金原亭馬生、次いで1939年に古今亭志ん生を襲名しました。
有名なのは大正から昭和にかけての極貧不遇時代でしょう。当時の落語界の実力者・5代目三升家小勝に楯突いて講釈師に転業し、詫びを入れて復帰しても周りに合わせられず苦労したようです。著作『びんぼう自慢』に出てくる本所の「なめくじ長屋」での鬱屈を思うと、その後の名人芸はそれを爆発させたようにも映ります。盟友8代目桂文楽との両輪は、戦後の落語黄金時代の象徴と言えるでしょう。
1961年、読売巨人軍の優勝祝賀会で脳出血に倒れ、半身不随となり破天荒な芸風が影を潜めました。その後1973年に亡くなりますが、奔放で鋭い感性に裏打ちされた飄逸な口跡、卓越したギャグ、独特の間は志ん生ならではのもので、未だにファンの多いのも頷けます。しかし、父を継ぐであろうと思われた息子の8代目馬生、3代目志ん朝とも、既にいない寂しさはどうしても拭いきれません。
(参考資料:橘左近『東都噺家系圖』筑摩書房)